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1014 2020

ブログ

いつもと違う生活

今回は、後期開始にあたって、校長先生からご寄稿いただきました。

 

内海康雄

いつもと違う暮らしでは安全が大切

今とは違う環境や自分とは異なる考えを見聞きすることは、考えや視野を広げる上でとても良いことだと思います。いつもと別の見方で、周りや自分自身を見ることができると、初めて出会うことにも、それほどあわてずにすみます。ほかの考え方から見たらどうだろうかと、一歩引いて、外から自分を眺めることができます。

1980年代後半にカリフォルニア州のバークレーに2年近く住んでいました。行く前は、日本のTVや映画でアメリカの生活を知っているつもりでしたが、日本との多くの違いを実感しました。ここでは、町の治安を取り上げてみたいと思います。
 

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まずは下宿生活

最初の3か月は日本人のPさんの紹介でBed & Breakfastと呼ばれる下宿生活をしました。Pさんは、当時「地球の歩き方」に記事が出ていた方です。普通の家に間借りしたのですが、洗濯、部屋の掃除、食事の支度と片付け、冷蔵庫・電話料金の支払いなどの約束を決めます。実際には自炊でしたが、時々家族で夕食や外食を一緒にしました。家主のSさんの不動産の仕事や南米の母国の話を聞かせてもらい、それぞれの宗教に応じてクリスマスなどの行事を迎えます。あまり互いに干渉しない家族同様の生活でした。
 

職場では、日本と同じように、会議、部屋、駐車など仕事上のルールを教えてもらって、仕事が始まります。何も知らないので、あちこち聞いている内に、気の合う親身になってくれる友達が、町の治安や身の安全の守り方を教えてくれました。町の危ない場所とその時間帯、3日続けて同じ時間に同じ道を歩いてはいけないこと、街で角を曲がるときに後ろを振り返り人の気配を感じること、20ドル紙幣1枚を銃と誤解されないように持つこと、つけられた時のやり過ごし方、車を盗まれないガソリンの入れ方など、いろいろあります。

大都会ほどではありませんが、近隣地域の事件が当たり前のように聞こえてきます。パトロールカーも1名乗車ですので、日本の2名乗車に比べると、警察官はリスクが大きく緊張を強いられる職業だと思います。身近ですと、昼間にスーパーで買い物している間に、車のトランクを壊されてテニス・ラケットを盗られた事件がありました。2週間前から気に入ったラケットを奪う機会をうかがっていたようです。
コンビニ強盗が追われて、高速道路に逃げ込んだところ、警官隊に囲まれて銃撃戦になりました。家の近くをヘリコプターがたくさん飛んでいたそうです。ニュースで見たら、車が鉄の塊になっていて、言われるまでピックアップトラックとは分かりませんでした。何発撃ったらあのようになるのか、怖いと思いました。

基本的にどこでも夜間は安全ではありません。職場のローレンス・バークレー国立研究所には所内に警察組織があり、隣接するカリフォルニア州立大学バークレー校では、学生が自主警察を持っていて、夜間警備をしています。警察の講習会では、夜9時を過ぎたら自動車道の真ん中を歩くように指導されました。歩道は車道より危険なのです。

カリフォルニア州立大学バークレー校は、リスが遊ぶ美しいキャンパスでして、ノーベル賞受賞者が10名くらいいます。一方で、数十mおきに非常通報用のボタンの付いた鉄柱があります。夜の学生街には、隣接する街区に住む薬の売人が出るので、地元の人は近寄りません。

危急の際に警察に通報しても、来てくれるとは限りません。知人がパスポートをなくした所、拾ったので受け取りに来ないかと電話がありました。深夜でしたので警察に同行をお願いしたら、断られました。そこは危ないので行かないそうです。帰国前日の大騒動になりましたが、周囲の支援で無事帰国しました。盗まれたオートバイを見つけてもらった知人は、警察に保管料を払いました。何か対応してもらう際には、しばしば有料となります。
 

医療については、事前に審査を受けて保険に入らねばなりません。当時はオバマケアもなく、審査を通らないと、病気になっても病院には行けませんし、救急車は来ません。診てもらうことができても、高額の医療費をその場で払います。

深夜に知人の子供が43度の熱を出した時は、直接行って病院と交渉して、診察するまで30分かかりました。受け入れる契約がないので、こちらの要求が生死にかかわるとしても、向こうにとっては理不尽な面があるのです。見ず知らずの方が、授業を受けたいからと、突然教室に入ってくるのに似ています。

幼稚園、小中学校は、フェンスで囲まれ、窓には鉄格子がついています。加えて一部の高校では、入り口に金属探知機を設置して銃刀類の持ち込みを検査します。校内には、薬物の禁止ポスターが貼られ、すべてカメラ監視、教員は無線機を持っています。荒れた高校の授業で教員が最初にすることは、教室の鉄扉の内側に鍵をかけることです。他のクラスからの殴り込みを防ぎます。

高校と地元のマフィアとの抗争がありました。昼の授業中に、マフィアがジープの荷台に機関銃を搭載して乗り込んできて、機銃掃射をして帰りました。町で一番の某ホテルのロビーでは、マフィアの銃撃戦がありました。

朝に高校の前の交差点で、いきなりジュースの入ったカップを投げつけられて、女子生徒数名に取り囲まれたことを思い出します。誕生日のプレゼントに銃を贈る家庭があるので、気を付けなければなりません。あおり運転を受けても、とにかく刺激せずにやり過ごすようにします。幼い子供でも老婦人でも銃を持っているかもしれないのです。祖父、父親、息子がいさかいをして、撃たれそうになった父親を守るために、息子が祖父を撃った事件が今年ありました。痛ましいことです。

研究所の秘書のS氏は馬を持っているので、ライフル銃を日常的に使っていました。彼女が出場するロデオ大会に行きましたが、西部劇に出てくるシーンそのものでした。ある時は、カウボーイが馬に乗って、投げ縄を振り回しながら、数百頭の牛を追って一般道路を横切っていきました。ある種の職業には銃は必需品なのです。
 

戸建て住宅と集合住宅での生活

その内、典型的な中流家庭の古い戸建て住宅を、S氏とも相談して、事前に地域の治安を調べてから借りました。数ページの契約書をすべて読んで、署名して契約成立です。幸い付近の方々が良い人達でして、皆で治安に気を使っていることが分かりました。敷地内のごみ、芝生の手入れ、路駐の車はいつもと同じか、変わった人や車が通らないかなど、判断の仕方が分かってきました。

その後、大家のS氏と大喧嘩して家を飛び出て、家族での放浪生活を経て、日本人が多く住まう集合住宅に移りました。大家とは1カ月くらい後に和解しました。この頃から、幼稚園、日本人会、職場の同僚とのパーティー、趣味や旅行と異国の生活の幅が広がっていきました。

けがや病気、車の購入・メンテナンス、取引や契約の交渉、人付き合いをはじめとする現地でのやり方とトラブルへの対処方法が身について、安全な範囲の見極めができるようになりました。どこまでやっていいのか、言っていいのか、やりすぎるとどうなるかが予測できます。また規則正しく安定した生活が送れるようになったからです。

何事もやりすぎてはいけません。それで本当につらい思いをする人たちがいます。例えば、販売会社のクレーム処理というのは、ストレスのかかる仕事ですが、一度言い過ぎたことがあります。電話口で涙声になっていました。クレームには言い方がありますが、深く反省してそのようなことは言わないようにしています。
 

怨(うら)みに対して怨みで返せば、怨みは永遠になくなりません。仏陀は紀元前に、ネルーと蒋介石は太平洋戦争直後に言っています。怨み、憎しみ、怒りのようなネガティブな思いとそれによる行動は、必ず我が身に帰ってきます。周りの方々を見ていると、すぐの時もあるし、数十年後の時もあります。思いやりや慈しみのようなポジティブな思いや行動も、必ず我が身に返ってきます。どちらが我が身と周りの皆さんにとって良いでしょうか。

海外の方は、英語が話せなくても、最初の5~10分位で相手の性格や能力を判断します。このような人の割合は日本人より多いと感じます。その判断によって付き合い方を決めているようです。多くの国々では、付き合う相手の育った背景が日本に比べてはるかに多様なので、考え方が違うこと、今はやりのダイバーシティは前提のようです。

とにかく違う生活を始めたら、信頼できる友達を多く作りましょう。もちろん、こちらも信頼される振る舞いをしなければなりません。特別なことをする必要はありません。周りの人たちと話しながら、意見を聞きながら、生活を続ければよいのです。最初はみな同じです。
 

今の日本は安全ですが。。。

日本は、これまで訪問した国、暮らした国と比べても安全な方です。なぜでしょうか。おそらく、先人の多くの努力と、今生きている我々の努力だと思います。

数年前に、バルセロナで開催されたスマートシティEXPOに参加して、リオデジャネイロのパエス市長(当時)と一緒にパネリストになりました。リオデジャネイロは、オリンピックを間近に控えている時期でした。同市は、河川の水害監視システムの構築で、EXPOの最高賞を受賞しました。

パネル・セッションが終わった後、彼に聞きました。「受賞おめでとうございます。しかし失礼ですが、システムは一般的なものですし、運営・管理に200名というのは規模からいって多くありませんか? 予算も必要でしょう。」

すると、「その通りですが、200名必要なのです。この運営に係ることにより、家族、親戚、友人ほかの方々に安全についての考え方が伝わります。おそらく一桁多い人達の意識を変えることができると思います。」主催者側もそれを評価したかと思います。

リオデジャネイロのコパカバーナ海岸へ行ってみたら、300m間隔でランプを回すパトカーと自動小銃に手をかけた警察官がいます。目立たない格好で宿泊するホテルに入ったら、セキュリティ数人が遠巻きにしてじわじわと近づいてきます。タクシーに乗ろうとしたら、客の取り合いで喧嘩が始まりました。

このような不安定な情勢のリオデジャネイロでしたが、その後、彼と仲間の努力が実って、オリンピックは成功に導かれました。最終日の翌日、彼のことを思い出していました。本当にうれしいことです。
 

我が国は太平洋戦争の直後の極度の混乱状況から、20年位で経済的に成長して、食べることにそれほど心配しなくてもよくなりました。

親から太平洋戦争の仙台空襲の話を聞きました。空襲があり防空壕に入っていたのですが、祖母が忘れ物を取りに戻ったところに焼夷弾が落ちてきました。不思議ですが、空高く飛ぶB29爆撃機の銀色の機体が探照灯に照らされて、きらきらと光ってきれいだったそうです。舞鶴にも空襲がありましたので、同じような悲劇が起きていたと思います。このような非日常は人間の感覚を変えていきます。

闇米やMP(Military Police)の話を聞きました。お金がないときは衣服などを持って行って米に換えて、見つからないように持ち帰ります。祖父の家にMPが来て、目の前で無作法を働いたそうです。当時の日常はスタジオジブリ作品「火垂るの墓」の通りでした。

昭和30年代は、傷痍軍人が年末には街頭に出ていましたし、小学生の衣服や遠足の弁当を見れば、モノの不足が感じられました。給食にはアメリカが支給してくれた脱脂粉乳はいつも、国内で取れるたんぱく源であるクジラの竜田揚げは頻繁に出ていました。昭和40年代の高度成長期を迎えて、モノが充足していきました。

これらの時代の感覚を追体験するのは難しいとは思いますが、東日本大震災の発生後、沿岸部を中心とした地域は3か月程度にわたって、昭和30年代のような状況だったと思います。あの感覚がよみがえりました。とにかく水と食料がないのです。人によっては住む家がありません。

海の近くには陽の高いうちにだけ行くように指導がありました。車に二人以上で乗って行って、一人はエンジンを切らずにすぐ逃げられるように近くで待機して、もう一人が鉄パイプや金属バットを持って現場に行きます。危うく難を逃れた人の話も聞きました。

阪神淡路大震災の直後も、これとぴったりではないかもしれませんが、近い状況だったと思います。大きな災害はすぐに人々を非日常に送り込みます。疑心が暗鬼を生んで悲惨な出来事が起こる一方で、我が身を犠牲にしてまでも、他人を助ける人が出てきます。その人の本性が現れます。
 

スイスでは、災害や戦争に備えて、各家庭に食料を2~3か月分備蓄しています。古いほうから食べていきます。皆兵制なので厳しい環境下での生活方法は皆知っています。サバイバル・ツールとして使えるアーミー・ナイフが有名です。スイス料理は確かに保存食で作れるものが多くあります。

訪れる機会があれば見て頂きたいのですが、道路の脇に水門のような鉄の扉が、街のあちこちに設けてあります。いざというとき、戦車の侵攻を防ぐための柵になるのです。今は永世中立国として、金融業、観光業といった産業のほか、世界的な食品メーカー・ネスレなどで知られますが、もともと資源が少なく、かつて「血の輸出」と呼ばれるほどに有名であった傭兵の派遣などを通して得た、国の知恵と思います。
 

一つ良い話をしましょう。中舞鶴の共楽公園に「アロハ桜」という木があります。公園の桜越しに東舞鶴の港が見えます。最近知ったのですが、日系2世のフジオ高木氏が、引き揚げ船が次々と来る中で、アメリカ軍人として進駐していた時に、舞鶴市の有志と共に植えた桜です。食べるものがない時に、桜を植えることには批判があったそうですが、長い間を考えるととても良いことと思います。舞鶴には桜が多くて楽しんでいますが、なぜだろうと思っていた謎が解けました。

2018年3月に当時の方々が再度の植樹をしました。その場所に石碑があります。細川呉港著「舞鶴に散る桜」に詳しく書いてあります。当時の舞鶴やハワイの方々が懸命に生きている姿には感動しました。数年前、高木氏はご夫婦で舞鶴市に来ていただいたそうです。

我々の親と祖父母の世代の方々に感謝したいと思います。頂いたこの暮らしの安全を続けると同時に、将来に何とか活かしていければと思います。

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